2006年12月12日
佐々木 小次郎の妻と墓
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慶長17年4月13日、巌流島の決闘で敗れた佐々 木小次郎。
その妻ユキはキリシタンの信者だった。
当時懐妊中のユキは小次郎の遺髪を抱き、
厳しいキリスト教の禁令により
多くの信者とともに山陰の地に安全な居所を求めた。
ユキは、阿武町大字福田下の正法寺に身を寄せ剃髪して尼となり、
夫である佐々木 小次郎の冥福を祈り菩提を弔うために墓を建て、
その墓のすぐ下のお堂というか庵で一生を終えたといわれている。
この庵は正法寺が太用寺に移った跡地に、
ユキ尼が小さい庵を建てたとも言われている。
我が子に対する因果応報の絆を断ち切るために、
小次郎の名を
「古志らう」
と変えて墓に記したとの言い伝えが残っている。
小次郎の墓と並んで佐々木姓の墓が多くあり、
今も佐々木姓を名のる家が地区内に数軒有り、
末裔かとも言われている。
小次郎の墓の上の段には六面石、一基があり、
妻ユキが信じていたバテレン墓と思われる。
その隣りには粟屋元吉公の墓があった(昭和53年太用寺の境内に移された)。
その妻ユキはキリシタンの信者だった。
当時懐妊中のユキは小次郎の遺髪を抱き、
厳しいキリスト教の禁令により
多くの信者とともに山陰の地に安全な居所を求めた。
ユキは、阿武町大字福田下の正法寺に身を寄せ剃髪して尼となり、
夫である佐々木 小次郎の冥福を祈り菩提を弔うために墓を建て、
その墓のすぐ下のお堂というか庵で一生を終えたといわれている。
この庵は正法寺が太用寺に移った跡地に、
ユキ尼が小さい庵を建てたとも言われている。
我が子に対する因果応報の絆を断ち切るために、
小次郎の名を
「古志らう」
と変えて墓に記したとの言い伝えが残っている。
小次郎の墓と並んで佐々木姓の墓が多くあり、
今も佐々木姓を名のる家が地区内に数軒有り、
末裔かとも言われている。
小次郎の墓の上の段には六面石、一基があり、
妻ユキが信じていたバテレン墓と思われる。
その隣りには粟屋元吉公の墓があった(昭和53年太用寺の境内に移された)。
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